「アファンの森」から始まった、日本で自然を保護する活動
2019/12/16
C.W.ニコルの森づくりの記録「森と人との関わり方」の連載。第1回目のテーマは人間と自然との変わりゆく関係。それを目の当たりにしたとき、嘆いていても仕方がないと行動に移したのが、C.W.ニコル氏だ。
日本の森林は
痛み続けている
今も相変わらず日本中の森林が痛んでいます。
白神山地、屋久島、西表島——私が日本で自然保護に関する仕事を始めてから40年以上経ちますが、その間にこうした場所(現在は世界自然遺産に登録された)からでも「うちにも来てください」という悲鳴を聞いてきました。
1998年の長野オリンピックより少し前の話ですが、お金になる大木を伐るために山奥まで大きな林道や橋を作って木を切り出し、原生林を杉だらけに変えていく。
しかも、ある程度伐採が終わった後は大きなトラックが山に入り、産業廃棄物や医療廃棄物を捨てていく。そんな光景を目の当たりにしてきました。
その後も日本の森林が良くなったとはとても言えません。今後、森林そして林業の未来はどうなるのでしょうか。
私の人生を振り返りながら考えてみたいと思います。
子供が山で遊ぶ時代
私は1940年にイギリスのウェールズで生まれ、高校卒業後はカナダに行きました。その後、22歳で東京へ来日し、23歳で都心の生活が窮屈になり東村山市へ移住しました。
当時、私は空手の修行中でしたが、道場の中だけの修行ではダメだと思い、近くの山の中で型の基本を練習したりしていました。
当時住んでいた家の近くの雑木林で、子供たちがいつも明るく楽しく遊んでいる光景がとても印象的でした。
目が生き生きしており、何より自然のことにとても詳しい。私もその子たちから日本の自然について多くの知恵を授かりました。
彼らは一流大学の学生よりもはるかに賢かった。今の大学生に森林の話をしても全く言葉が通じません。
なぜなら、楢(なら)、橅(ぶな)という木の名前(音)は聞いたことがあっても、木の形や性質を全く知らないからです。
また東村山市ですごく感心したのは、枯れ落ちた枝が道端に一つも無かったことです。
なぜならすべて薪として使っていたからです。他にも、秋になると落ち葉を拾い、畑に溝を掘って整然と敷いたりしていました。
日本の畑はとてもきれいで素晴らしく、私はあの時、日本の農家は「ファーマー」ではなく「ガーデナー」(庭師)だと感じました。
きれいな森づくりを
はじめたきっかけ
しかしそれから約40年間で、日本中の里山は藪だらけになってしまった。子供が山で遊べない。大人たちは何も手入れをしないどころかゴミ捨て場にしています。
その予兆は、1980年、40歳の時に長野県黒姫山への移住後に入った猟友会で感じていました。
当時、地元の猟師と一緒に付近の山々を7年ほどかけて歩き回りました。
その時は「日本の自然は素晴らしい」と思いましたが、よく見ると杉やカラ松などが植えっぱなしで全く手入れがされていない。しかも、山奥にある最後の最後に残った原生林ですら、自分たちの給料を賄うために伐採している。
そのころから、私は雑誌や講演などで「日本の林業はとても間違っている」と訴えてきました。
すると、当時の自治体のお偉いさんと林野庁の担当者が私の家を訪れ、「これ以上何も言うな」と言いました。しかし、そう言われるともっと大きい声で訴えたくなるのがケルト人の気質というものです。
しかし、嘆いていても仕方がない。1985年、小さくてもいいからきれいな森を残したいと、森づくりを始めたのが「アファンの森」の出発でした。
PROFILE
C.W.ニコル
作家・1940年イギリス南ウェールズ生まれ。1995年日本国籍取得。カナダ水産調査局北極生物研究所の技官・環境局の環境問題緊急対策官やエチオピアのシミエン山岳国立公園の公園長など世界各地で環境保護活動を行い、1980年から長野県在住。1984年から荒れ果てた里山を購入し「アファンの森」と名づけ、森の再生活動を始める。2005年、その活動が認められエリザベス女王から名誉大英勲章を賜る。2011年、「アファンの森」が日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」に登録される。2016年、(社)国土緑化推進機構より「第6回みどりの文化賞」受賞。2016年、天皇、皇后両陛下がアファンの森をご視察された。
FOREST JOURNAL vol.1(2019年秋号)より転載